2015.11.14更新

瑞龍寺

     南無釈迦如来牟尼佛


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所在地 富山県高岡市関本町35
位置 北緯36度44分08秒 東経137度00分38秒
山号 高岡山
宗旨 曹洞宗
本尊 釈迦如来
創建年 慶長19年(1614年
開山 広山恕陽(こうざんじょよう)
開基 前田利常
文化財 仏殿、法堂、山門(国宝)
総門、僧堂(禅堂)、大茶堂、高廊下、北回廊、南東回廊、南西回廊、
紙本墨書後陽成院宸翰御消息(重要文化財)
木造烏蒭沙魔明王立像、紙本墨書近衛信尋筆懐紙、
前田家寄進の宝物(富山県指定有形文化財)
石廟(富山県指定史跡)
瑞龍寺(ずいりゅうじ)は、富山県高岡市にある曹洞宗仏教寺院山号は高岡山。本尊は釈迦如来。開基は前田利常、開山は広山恕陽。仏殿法堂山門の3棟が近世禅宗様建築の代表作として、平成9年(1997年)に国宝に指定されている。これは富山県下における初の国宝指定であり、平成26年(2014年)現在も富山県唯一の国宝である。
加賀藩2代藩主前田利長(1562年 - 1614年)が、織田信長信忠らの追善のため、文禄3年(1594年金沢に創建した宝円寺(後に法円寺と改称)が瑞龍寺の前身である。利長は慶長10年(1605年)、44歳の若さで家督を異母弟の利常(1594年 - 1658年)に譲り、自らは隠居した。利長には実子がなかったため、30歳以上年下の異母弟で、当時まだ少年であった利常を養嗣子としたのである。隠居後の利長は金沢から富山に移転するが、富山城の炎上を機に高岡に移り、ここに新たに高岡城を築いた。前述の法円寺は、利長死去の前年である慶長18年(1613年)、高岡に移された。
前田利長は慶長19年(1614年)没し、後を継いだ3代藩主前田利常は、法円寺を利長の菩提寺とし、利長の法名瑞龍院に因んで寺名を瑞龍院と改めた(後、さらに瑞龍寺に改称)。
前田利常は承応3年(1654年)から瑞龍院の伽藍の本格的整備に着手した(伽藍整備の開始は、利長の三十三回忌にあたる正保3年(1646年)からとする説もある)。建築工事は、加賀藩お抱えの大工頭・山上善右衛門嘉広(代々「善右衛門」を名乗る)が棟梁となって進められた。山門、仏殿、法堂が一直線に並び、左右に回廊をめぐらして諸堂を対称的に配置する伽藍配置は中国の径山万寿寺にならったものといい、伽藍整備が完成したのは利長の五十回忌にあたる寛文3年(1663年)頃であった。
瑞龍寺は近世を通じて前田家の手厚い保護を受け、寺領三百石を有する大寺であった。延享3年(1746年)の火災で山門を含む伽藍の前半部分が焼失し、山門が再建されたのはそれから約70年後の文政3年(1820年)であった。
江戸時代には僧堂(禅堂)側に七間浄頭東司トイレ〕)、大庫裏(おおくり)側には浴室があり、七堂伽藍がそろっていたが、明治時代に入り加賀藩の庇護を受けられなくなり困窮し、部材を売るため解体された。
昭和60年(1985年)から大規模な修理が行なわれ、約10年かけて完了し、その後、平成9年(1997年)12月3日に国宝に指定されている。平成23年から毎年2月に「夜の祈りと大福市」が行われている[1][2][3]