2015.06.24更新

富山城址


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別名 安住城、浮城
城郭構造 梯郭式平城
天守構造 不明
模擬天守/
複合連結式望楼型
3重4階(天守)
2重2階(小天守)
(1954年 RC造
築城主 神保長職水越勝重
築城年 天文12年(1543年
主な改修者 佐々成政前田利次
主な城主 主に前田氏
他に神保氏佐々氏
廃城年 明治4年(1871年
遺構 石垣、堀
指定文化財 国の登録有形文化財
富山市郷土博物館
再建造物 模擬天守
位置 北緯36度41分35.83秒
東経137度12分39.18秒
富山城(とやまじょう)は、富山県富山市丸の内にあった日本の城である。「浮城(うきしろ)」「安住城(あずみじょう)」ともいわれた。
富山の地は北陸街道飛騨街道が交わる越中中央の要衝であり、富山城は16世紀中ごろ越中東部への進出を図る神保長職により築かれたとされる。神通川の流れを城の防御に利用したため、水に浮いたように見え、「浮城」の異名をとった。当時の神通川は富山城の辺りで東に大きく蛇行しており、その南岸に富山城は築かれていた。
また、滝廉太郎の「荒城の月」の着想の元になった城の一つといわれている。現在、城跡は「富山城址公園」となっている。
天然の要害である神通川を北面の守りとした後ろ堅固の梯郭式平城で、四周を水濠と河川とで2重に囲まれた10万石級の大名としては大規模な構えの城であった(江戸時代以降)。浮城の別名から、神通川の川面に浮かぶような様子であったことが伺い知れる。縄張りは、ほぼ方形の本丸の南面に二の丸を、東西に出丸を置き、本丸をそれら3つの郭で囲み、さらにそれを三の丸で凹状に囲む形のものであった。ただし、本丸搦手を守る東出丸はほかの郭のように三の丸に内包されておらず独立しており、また神通川の土手沿いに直接城外に通じているなど、反撃の基点となる大型の馬出しの性格を持つ郭であった反面、防御面では弱点であることから、さらにその東側に三の丸東北端に接する形で小郭が設けられており、この郭には幕末に千歳御殿(後述)が建てられた。
当初の計画では、天守台を石垣で築いた天守、櫓3基、櫓門3門を備える予定で幕府の修築許可を得ていたが、その後の江戸時代の古図にはいずれも天守の記載がなく、また発掘調査の結果からも本丸南東隅に天守土台となる土居の拡張工事は認められるものの石垣工事の痕跡はないため、天守は築かれなかったとみられている。3基の櫓については史料がなく、何基が建てられ、またどのようなものであったかなど全く不明である。櫓門については、実際に櫓門として建てられたのは予定の3門(本丸大手・本丸搦手・二の丸)の内、二の丸二階櫓御門のみであったとされているが、現存する二階櫓御門の写真からは、門に接続して宗藩の金沢城同様に唐破風を設けた海鼠壁の城壁が巡らされており石高相応に威儀を正していたことが見て取れる。
富山城の縄張りは藩政期を通して大きな変化は見られなかったが、嘉永2年(1849年)に10代藩主利保の隠居所として千歳御殿が東出丸の外側(東側)に建てられた。名称こそ「御殿」であるが、その形状は周囲に水濠を設けた独立郭であった。
江戸時代後期には東西約680メートル、南北約610メートルの縄張りがあったが現在城址公園として残っているのは、本丸と西の丸(間の水濠は埋め立て)、それらの南面の水堀および二の丸の一部のみ(東西約295メートル、南北約240メートル)で、面積では約6分の1である。本来の富山城は石垣は主要な門の周囲のみであり他の大部分は土塁の城であったが、昭和・平成と模擬天守東側に石垣が新造されたことで往時の歴史的な姿とはかなり異なるものとなっている。