2015.11.30更新

長興寺


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         圓通殿

所在地 愛知県豊田市長興寺1-29
位置 北緯35度4分25.48秒
東経137度10分5.14秒
山号 集雲山
宗旨 臨済宗
宗派 東福寺派
寺格 別格寺院
本尊 十一面観音
創建年 建武2年(1335年
開基 太陽義冲
(招聘は衣城主 中条秀長)
永禄10年(1567年焼失)
中興年 天正11年(1583年
中興 余語正勝(衣城代)
正式名 長興禅寺
文化財
  • 絹本著色仏涅槃図
  • 紙本著色織田信長像
    (狩野元秀筆)
  • 絹本著色無為昭元像
長興寺(ちょうこうじ)は愛知県豊田市にある臨済宗東福寺派の別格寺院。山号は集雲山(しゅううんざん)。本尊は十一面観音。開山は太陽義冲
建武2年(1335年三河国衣(ころも)城主[1]中条秀長菩提寺として太陽義冲を招聘して創建。当時の寺域は南北5丁余り、東西4丁余り、18坊に及ぶ塔頭が建ち並び、地域最大の寺院であった。
室町時代中期、応仁の乱1468年 - 1477年)後、中條氏の衰退と共に衰退。永禄10年(1567年)には、余りの偉容に城と間違えた織田信長の兵火によって焼失した。天正11年(1583年) 信長の家臣で衣城代の余語正勝が、再興した長興寺で信長の一周忌法要を行った。その際に、日本の歴史教科書にも掲載されている狩野元秀筆の「紙本著色織田信長像」[2]重要文化財)が寄進された。
元禄年間(1688年 - 1704年本堂庫裏を重建。現本堂は昭和50年代 鉄筋コンクリート造で再建されたものである。
長興寺を中心に住民が増加し、寺院への供物を受け持つ地域を東西に分け、「長興寺字供膳(くぜ)寺」という地名が設定された。これが今の地名が寺の地名と同じになった起こりである。
江戸時代には長興寺村となり、挙母藩(2万石)の領地の一部であった。城下ではなく、農村集落で約400石ほどであった。
明治時代中頃に、周囲の村と合併して根川村となり、更に明治39年に、城下と合併して挙母町となった。