2015.12.13更新

宇治上神社


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        宇治上神社

        宇治上神社

所在地 京都府宇治市宇治山田59
位置 北緯34度53分31.44秒
東経135度48分41.18秒
主祭神 菟道稚郎子命
応神天皇
仁徳天皇
社格 式内社(小)
府社
創建 不詳
本殿の様式 一間社流造3棟
別名 離宮明神
例祭 5月1日

宇治上神社(うじがみじんじゃ、うじかみじんじゃ)は、京都府宇治市にある神社式内社で、旧社格府社。隣接する宇治神社とは対をなしている。
ユネスコ世界遺産に「古都京都の文化財」の構成資産の一つとして登録されている。
創建年代などの起源は明らかではない。当社のすぐ近くには宇治神社があるが、当社とは二社一体の存在であった[1]。当社の境内は『山城国風土記』に見える菟道稚郎子の離宮「桐原日桁宮」の旧跡であると伝え、両社旧称の「離宮明神」もそれに因むといわれる[1]
当社の境内外には「天降石」や「岩神さん」と呼ばれる巨石があり、磐境信仰による創祀という説もある[1][2]
延喜式神名帳』には「山城国宇治郡 宇治神社二座 鍬靫」と記載があり、「二座」はそれぞれ宇治神社・宇治上神社を指すとされている[1]。この「二座」を祭神と見た場合、菟道稚郎子を一座とすることは動かないものの、もう一座については父の応神天皇・異母兄の仁徳天皇・母の矢河枝比売とする説がある[2]。なお、宇治上神社の本殿は本来左右2棟であるとして、「宇治神社二座」は宇治上神社のみを指すという説もある(3棟の建築年代については後述)。近くに平等院ができると、両社はその鎮守社とされたという。
明治以前は当社は「上社」「本宮」、宇治神社は「下社」「若宮」と呼ばれたほか、両社を合わせて「宇治離宮明神(八幡宮)」と総称された[1]
明治に入って宇治上神社とは分離し、それぞれ近代社格制度では府社に列した。
2004年2月奈良文化財研究所や宇治市などによる年輪年代測定調査では、本殿は1060年頃のものとされて「現存最古の神社建築」であることが裏付けられた。また、1052年創建の平等院との深い関連性が指摘されている。
本殿は平安時代後期の建立で、神社建築としては現存最古とされる。流造、桁行5間(正面)、梁間(側面)3間、檜皮葺きの建物内に、一間社流造の内殿3棟が左右に並ぶ(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する)。内殿は左殿(向かって右)に菟道稚郎子命、中殿に応神天皇、右殿(向かって左)に仁徳天皇を祀る(左殿・中殿・右殿を順に第一殿・第二殿・第三殿ともいう)。左殿と右殿は組物が三斗で、組物間に蟇股を置くなど、形式・規模がほぼ等しいが、細部の様式から左殿の方が年代が上がるとみられる。中殿は左右殿より規模が小さく、組物を舟肘木とし、蟇股を用いないなど、形式にも違いがある。外側の桁行5間、梁間3間の建物は内殿の覆屋にあたるが、内殿と覆屋は構造的に一体化しており、左殿と右殿の側廻りや屋根部分は覆屋と共通になっている。左殿と右殿の内陣扉内側には彩絵があり、建物とは別個に「絵画」として重要文化財に指定されている。左殿の扉絵は唐装の童子像2体、右殿の扉絵は束帯・持笏の随身像2体で、剥落が多いが、平安時代にさかのぼる垂迹画の作例として貴重である[3]。国宝に指定。
拝殿は鎌倉時代前期の建立で、寝殿造の遺構といわれる。切妻造、檜皮葺き。桁行6間、梁間3間の主要部の左右に各1間の庇を付す。桁行6間のうち、向かって左端の1間は柱間が狭く、隣接する庇部分とともに閉鎖的な1室を構成する。建物右端の庇部分も1室となり、これらに挟まれた中央の桁行5間 x 梁間3間分を広い1室とする。屋根は切妻造平入りの屋根の左右端に片流れの庇屋根を設ける。切妻屋根と庇屋根の接続部で軒先の線が折れ曲がっており、こうした形を縋破風(すがるはふ)と称する。周囲に榑縁(くれえん)をめぐらし、内部は板床と天井を張り、蔀戸を多用した住宅風の構えである[4]。本殿同様、国宝に指定されている。
また境内には「桐原水」と称される湧き水があり、唯一現存する「宇治七名水」の1つに数えられる。

   宇治上神社-鳥居扁額離宮

    宇治上神社-離宮大神

    宇治上神社-離宮大神

    宇治上神社-離宮大神

    宇治上神社-離宮大神

    宇治上神社-離宮大神

    宇治上神社-離宮大神