2016.02.26更新

丹生都比売神社


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      丹生都比売神社

所在地 和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野230
位置 北緯34度15分45.80秒 東経135度31分19.20秒
主祭神 丹生都比売大神
高野御子大神
大食津比売大神
市杵島比売大神
社格 式内社名神大
紀伊国一宮
官幣大社
別表神社
本殿の様式 一間社春日造4棟
別名 天野大社
札所等 神仏霊場巡拝の道第12番(和歌山第12番)
例祭 10月16日
主な神事 御田祭(1月第3日曜日)

丹生都比売神社(にふつひめじんじゃ/にうつひめじんじゃ、丹生都比賣神社)は、和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野にある神社式内社名神大社)、紀伊国一宮旧社格官幣大社で、現在は神社本庁別表神社
別称として「天野大社」「天野四所明神」とも。全国に約180社ある丹生都比売神を祀る神社の総本社である[注 1]
紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されている。
和歌山県北東部、高野山北西の天野盆地に鎮座する。空海金剛峯寺を建立するにあたって丹生都比売神社が神領を寄進したと伝えられ、古くより高野山と深い関係にある神社である。神社背後の尾根上には高野山への表参道である高野山町石道(国の史跡、世界遺産)が通り、丹生都比売神社は高野山への入り口にあたることから、高野山参拝前にはまず丹生都比売神社に参拝する習わしであったという。丹生都比売神社自体も高野山からの影響を強く受け、境内には多くの仏教系の遺跡・遺物が残る。和歌山県・奈良県を主とした各地では、高野山の荘園に丹生都比売神社が勧請された関係で、丹生都比売神社の分霊を祀る神社の分布が知られる。
神社では国宝の銀銅蛭巻太刀拵[1]を始めとする文化財のほか、本殿[2]および楼門[3]などの社殿が国の重要文化財に指定されている。また境内は国の史跡に指定されている[4]。これらのうち本殿、楼門および境内は、ユネスコ世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されている[5][6]
丹生都比売神社は高野山との関係が深く、古くは多宝塔・御影堂・不動堂・山王堂・護摩所・鐘楼・経蔵・坊舎等の仏教建物が営まれていたことが古絵図によって知られる。神仏分離によってこれらは除かれたが、神仏習合時代の遺構が良好に残されていることから、境内は国の史跡に指定されている[4]
本殿は第一殿から第四殿の4棟からなる。楼門奥の最上段に向かって右手から第一殿・第二殿の順で一列に並び、第四殿のさらに左手には若宮が鎮座する。これら各棟には祭神が1柱ずつ祀られている。いずれも同形式・同規模の一間社春日造檜皮葺で、第一殿は江戸時代正徳5年(1715年)、第二殿は室町時代文明年間(1469年-1486年)、第三殿は明治34年(1901年)、第四殿は室町時代の文明元年(1469年)の造営である。各殿内とも鎌倉時代の一間春日見世棚造の宮殿を納めている。宮殿には嘉元4年(1306年)の銘があり、本殿前身の社殿と見られる。これら四殿は、附指定の宮殿を加えて「丹生都比売神社本殿」として国の重要文化財に指定されている[2][12][13]
楼門は室町時代、明応8年(1499年)の造営。13世紀末の作という「絹本著色弘法大師丹生高野両明神像」(金剛峯寺蔵)に描かれた境内図には、現在の楼門の位置に八脚門が描かれている。現在の形式は三間一戸の入母屋造で、檜皮葺。本殿同様、国の重要文化財に指定されている[3][14]
境内東部には、鎌倉時代から室町時代に建てられた石造の五輪卒塔婆4基がある。高さは2.1メートルから3.6メートルあり、正応6年(1293年)、正安4年(1302年)、文保3年(1319年)、延元元年(1336年)の刻銘がある。修験行者の行事の模様をうかがわせるもので、和歌山県指定有形文化財に指定されている[13]
境内背後の尾根上には高野山への表参道である高野山町石道(国の史跡、世界遺産)が通り、丹生都比売神社への枝道(八丁坂)への分岐点には通称「二つ鳥居」と呼ばれる鳥居2基が並ぶ。高野山参拝前にはここから丹生都比売神社に参拝する習わしであったという。『紀伊続風土記』によれば、この鳥居は弘仁10年(819年)5月3日に空海によって建立されたといい、当初は木造であったが慶安2年(1649年)5月に現在の石造で建てられたという[15]。この2基は丹生都比売神と高野御子神の鳥居を表すとされる。いずれも国の史跡「高野山町石道」の一部に指定されている。