2014.06.05更新
増上寺
阿弥陀如来
西向聖観世音
所在地
東京都港区芝公園四丁目7番35号
位置
北緯35度39分26.7秒
東経139度44分53.8秒
山号
三縁山(さんえんざん)
宗派
浄土宗
鎮西派
寺格
大本山
本尊
阿弥陀如来
創建年
明徳
4年(
1393年
)
開基
聖聡
正式名
三縁山 広度院 増上寺
札所等
江戸三十三箇所
21番
文化財
三解脱門、紙本著色法然上人絵伝
ほか(重要文化財)
徳川家霊廟
増上寺(ぞうじょうじ)は、
東京都
港区
芝公園
四丁目にある
浄土宗
の寺院。
山号
は三縁山。三縁山広度院増上寺(さんえんざん こうどいん ぞうじょうじ)と称する。
空海
の弟子・
宗叡
が
武蔵国
貝塚(今の
千代田区
麹町
・
紀尾井町
あたり)に建立した光明寺が増上寺の前身だという。その後、
室町時代
の
明徳
4年(
1393年
)、
酉誉聖聡
(ゆうよしょうそう)の時、
真言宗
から浄土宗に改宗した。この聖聡が、実質上の開基といえる。
中世以降、
徳川家
の
菩提寺
となるまでの歴史は必ずしも明らかでないが、通説では
天正
18年(
1590年
)、
徳川家康
が江戸入府の折、たまたま増上寺の前を通りかかり、
源誉存応
上人と対面したのが菩提寺となるきっかけだったという。貝塚から、一時
日比谷
へ移った増上寺は、
江戸城
の拡張に伴い、
慶長
3年(
1598年
)、家康によって現在地の
芝
へ移された。
風水
学的には、
寛永寺
を江戸の
鬼門
である
上野
に配し、裏鬼門の芝の抑えに増上寺を移したものと考えられる。
また、徳川家の菩提寺であるとともに、
檀林
(学問所及び養成所)がおかれ、
関東十八檀林
の筆頭となった。なお、
延宝
8年(
1680年
)6月24日に行われた将軍
徳川家綱
の法要の際、
奉行
の一人で
志摩国
鳥羽藩
主
内藤忠勝
が、同じ奉行の一人で
丹後国
宮津藩
主
永井尚長
に斬りつけるという刃傷事件を起こしている(芝増上寺の刃傷事件)。なおテレビドラマ
水戸黄門・第17部
においては、この一件が
水戸光圀
の旅立ちのきっかけとして描かれている(光圀の諸国漫遊はフィクション)。
また
元禄
14年(
1701年
)3月に江戸下向した
勅使
が増上寺を参詣するのをめぐって畳替えをしなければならないところ、
高家
の
吉良義央
が
勅使饗応役
の
浅野長矩
に畳替えの必要性を教えず、これが
3月14日
の殿中刃傷の引き金になったという挿話が文学作品『
忠臣蔵
』で有名である。畳替えの件が史実であるかは不明。なお、長矩は内藤忠勝の甥である。
明治時代には半官半民の神仏共同
教導職
養成機関である
大教院
の本部となり大教院神殿が置かれた。のち
明治
7年(
1874年
)1月1日排仏主義者により放火される。
徳川幕府
の崩壊、
明治維新
後の
神仏分離
の影響により規模は縮小し、境内の広範囲が
芝公園
となる。
太平洋戦争
中の空襲によって
徳川家霊廟
、
五重塔
をはじめとした遺構を失う大きな被害を受けた。
東京タワー
の建設時、増上寺は墓地の一部を土地として提供している。
なお、この付近の町名(
芝大門
)や地下鉄の駅名(
大門駅
)に使われている「大門」(だいもん)は、増上寺の総門のことを指す。現在の総門は昭和12年に作られた、コンクリート造のものである。